よねすけ、隣に突撃するってよ。

新しい世界を求めて、いざ突撃せん。

移動する時間を「無駄」なものと扱わず、移動時間そのものの「豊かさ」に気づくこと。

どうも、絶賛自転車日本一周中のよねすけ(@yonesukez)です。

現代において「移動時間」は無駄なものとして認識されていることが多いような気がします。出来る限り時間を短縮した方がいいし、またその合間にも無駄をなくそうと、巷では「移動時間の有効活用!」なんて本が溢れている。

一方、自分は自転車で移動することを目的にして、1日何時間も「移動するためだけ」に時間を費やしている。自転車に乗りながら、「これは大変な矛盾だけど、とても贅沢なことであり、豊かだな」と感じるようになった。そんなおはなし。

移動時間は無駄なのか

現代において、「時間」は一番大事なリソースとして考えられている。衣食住を得るためには時間が必要だし、そもそもあらゆる物質と交換できるお金も、時間によって生み出されている。時は金なり。

また人間が一生涯で使用できる時間も限られていて、冷静に計算するととても少ないことがわかる。おおよそ10年同じ分野につぎ込めば一人前になれると考えているのだけど、ひたすら打ち込んだとしても4つか5つの技能を習得するのが限界なのだ。

そんなとてつもなく大事な時間を、現代では無駄とされている移動時間に、僕たちは全てつぎ込んでいる。それこそ、目的地に到着するために一日中走ってその日を終えるなんてこともある。これは大変贅沢なことだと。

 

では、そもそも移動時間そのものは「無駄」なのだろうか。考え方によるけれど、移動時間そのものを堪能する行為はとても豊かなものではなかろうか。

人生で生み出せる成果を最大化するために、出来る限り「無駄」な時間を削ろうとする。その発想はわかる。移動時間が無駄なのだとすれば、その無駄を無くすために移動速度を速めたり、移動中に別の仕事をしたりする。

では仮に日本一周をするとして、出来る限り移動時間を早めたほうがよいのだろうか。否、目的を持つ必要はあるけど、じっくり時間をかけて回れば回るほど、地域の奥まで関わることができる。

 

これは旅の話だけではなくて、全てに当てはまるんじゃなかろうか。スピードを緩めることで初めて見えるもの、また移動する時間そのものを楽しむという発想。

移動時間そのものの豊かさに気づく

移動時間を「無駄なもの」だと初めから決めつけず、移動時間そのものに内在する豊かさに気づくこと。

そもそも、昔の人間は狩猟採集生活をしながら移動し続けていた。あくまで必要に駆られて移動していたそうだけど、移動しながら新しい気づきが生まれることもあったはず。移動することは、単純に莫大な情報を脳に与えることでもあり、それだけで活性化するもの。

またこれは持論だけど、移動せず好きなことをするのと、移動しながら好きなことをするのとでは、流れる時間の早さが異なるように思う。前者は時間が早く過ぎ、後者は遅く流れる。遅く流れる方が時間に内在する密度が濃くなる。

 

自転車に乗って街を移動していると、一人一人の住人の顔がわかるし、その場所で営まれている産業も自ずとなんとなく理解できる。

何気なく地域を通過している自分も、よく考えればその場に住む人と一瞬でも交わっていることになる。こちらが認識していなくても、地域では一人一人の生活する時間が着実に流れていて、自分には想像もできないほど一人一人に濃いストーリーが流れているのだろう。

時間を「無駄」と扱っていては、このような発想には至らない。ただの人間観察と言われればそれまでだけど、自分だけでも卒倒しそうなくらい濃い人生が、他の何千何億というレベルで繰り返されているのだから驚きだ。

 

移動する時間を無駄だと思わず、移動する時間そのものの豊かさに気づく。足し算じゃなくて引き算で、そのものの豊かさを感じること。移動することは、本来豊かな行為だったはず。

おわりに

そもそも「時間は何よりも大切な資源で、出来る限り節約しなければならない」という発想では、この結論に至るのは難しい。頭では理解していても、出来る限り無駄な時間を減らさなければと思ってしまう。

自分も普段はそのような考え方をしているのだけど、旅をしていると「ああ、豊かな時間だ」と感じる瞬間が度々あって、そんな時に上記のようなことを思う。流れる時間に対して「勿体無い!」と無理やり掴みかかるんじゃなくて、自分に流れる時間を認めて初めてそうなるのだと思う。

ちょっと考えがまとまっていなかったのだけど、ブログを書きながら多少無理やりにでもまとめてみた。自転車で移動していると、不思議とたくさんの気づきがあるから嬉しいね。これからも日本中を走り続けます。

 

それでは。