よねすけ、隣に突撃するってよ。

新しい世界を求めて、いざ突撃せん。

「幸福を感じるハードル」を下げようという時、人はとてつもない痛みを伴うことになる。

どうも、絶賛自転車日本一周中のよねすけ(@yonesukez)です。

昨年の12月末に実家へと戻り、早くも2ヶ月半もの時間が経過しました。旅をしていると様々な景色を見て脳が刺激を受けるので、経過する時間がとても長く感じられます。

でも実家に帰宅してからは、とても慣れ親しんだ空間で過ごし、その時間の大半を堕落することに使っていたものですから、経過が早く感じられたんですね。

旅に行く前は毎日食事に困らず、当たり前のように資本主義社会の恩恵を受けながら過ごしていました。それが旅に出た途端、衣食住の大半を失ってしまったために、幸福を感じるラインが徐々に下がっていきました。

一度実家に帰宅したことで、再び衣食住を得た。もう一度旅に出ることは、再び衣食住を手放すことと同義だけれど、自分でも驚くほど恐怖感を感じています。旅そのものにはワクワクするのに・・・。そんなおはなし。

幸福のハードルを下げることは簡単じゃない

資本主義社会で露骨に欲望をぶちまけることへの反発として、「幸福を感じるハードルを下げれば幸せになれるんじゃない」と提案する人がいます。

人間が欲望をぶちまけている時は、「もっと!もっと!」を追求している状態であり、望む物を手に入れても「もっと!」という思考になるため、永久に幸せになることはできない。

でも、その「もっと!」を望む気持ちを自ら抑えてしまえば、本当に必要なもの”だけ”に囲まれて幸せに暮らすことはできる。とても合理的な選択だと思うし、近年流行の「ミニマリスト」の本質はここにあると思っています。

 

言葉で語るのは簡単だけれど、これが実際に実行しようとすると半端じゃない痛みを伴う。

旅を続けることは自分にとっては前進することであり、まさに「やりたいことを叶える」ために行動し、同時に未知の世界をもっと知りたい、そんな欲求にも駆られながら再出発しようとしているはず。

究極的には死ななければいいし、それよりも自分の信念を追求したい。「今」に安住するのではなく、もっともっと走り続けていたい。頭ではそう理解していて、不安になる要素なんて一つもないのに、それでも体は「再出発したら、もう一度衣食住を失うことになるぞ!これ以上不安定な身になるのか!」と訴えかけてくる。なんなんだ、この現象は・・・。

不安なときほど、行動してみる

以前運営していた旧ブログで、「不安定な状態こそ安定なのだ」という記事を投稿しました。

 

参考記事:「これさえやっておけば大丈夫だ」みたいなものはなくて、信念に基づいて生きることが一番の安定になるのかもしれない。 | リアルマインクラフトの旅

 

ロジックとしては、世間一般で語られる安定とは「他者視点から見た安定」であって、それに備えて行動するにしても、不安を掻き立てるだけ。他人から見た安定ではなくて、自分の信念に基づいて行動することが安定と言えるのでは。仮に死に際に他者から誹謗中傷を受けたとしても、自分がこの人生で良かったと納得できる、そのために行動すること。

これを実践すると、世間一般から見れば「不安定」にしか見えないために、「不安定こそが安定」と呼んでいる。

今でもこの仮定は間違ってないと思っているけど、体は「また衣食住を失うのか!死ぬぞ!」と執拗に警告してくる。新しいことをする時は誰でも恐怖を感じるものだけど、一度やったことでさえ不安を感じるとはね。

 

・・・なんとなく、この段階で「選択肢を考えるだけ」なのか、「選択肢すら考えない」のか、それとも「不安だけど、行動する」のかで人生が大きく変化し、どんどん差がついていくのだろうなと思った。行動しないのも重要な選択だけど、「やりたい」「ワクワクする」のであれば、それでも行動するしかないのだ。

 

特に自分の場合は旅の終わりを定めず、旅が終わって何かが待っているというわけでもなく、旅中に自分の仕事を創ってやろう(探すのではなく)と思っているから、その想いに比例して不安が大きくなるのかもしれない。

あんまり重大に考えなくてもいいし、そんなに重大なものでもないのかもしれないけど、どうにもなりませぬな。

自転車日本一周を再開させることは間違いないのだけど、なぜか最初の出発時のような不安を再び感じてしまって、面白い現象だなと思って記事にしてみた。ま、不安に向き合って、正体を暴くために突き進むのみですな。

おわり

実家に滞在できるのも、あと数日。旅に出るまで、実家充しようとおもいます。それでは。