よねすけ、隣に突撃するってよ。

新しい世界を求めて、いざ突撃せん。

この世界で起きる「何か神秘的なもの」を見逃さないために、ココロの旅をしよう。

人はどうしようもなく「慣れる」生きもの。

割と過酷な環境であっても、最初は「嫌だ」と思って抵抗してみるけれど、毎日を繰り返すうちにストレス負荷にも慣れてしまう。

同時に「慣れ」によって、日常で起きている何か神秘的なものを見逃してしまう。だからこそ、ココロの旅を通して「環境の振れ幅」を生み出し、世界をより高精細に見通せるようにしてゆきたい。

環境の振れ幅

少し前に話題になっていたけれど、今から21年前の1月17日に阪神淡路大震災が発生した。僕自身はその年の12月に生まれた人間なので、当時のことを全く知らない。

東日本大震災しかり、その直前までは「当たり前」の生活をしていたはずなんだ。それが自然災害によって「非日常」に変えられてしまうけど、また日を繰り返すうちにその生活にすら慣れてゆく。

「慣れ」は人が刻々と変化する環境に対応するために生み出した知恵だけど、現代の生活では「罪なものだなぁ」とも思う。

 

僕は、そんな現在の生活に安住している状態が好きじゃない。

それは突き詰めれば、「幸せ」ではない状態かもしれない。環境の変化は仮に成長を促してくれるとしても、ストレス負荷の高い状態だ。

でも「慣れ」というものは、どうも日常を捉えるレンズを曇らせてしまう。変化のある状態だと、高精細な眼でこの世界を捉えることができる。空気の振動とか、その土地のにおい、神秘性や雄大さ。

 

環境に慣れてしまうと、どうも心に不純物が混じってしまうようだ。なんというか、心のレンズが濁ってしまう。

だから、あえて「環境の振れ幅」を生み出して、この世界をクリアな状態で捉えていたい。

それは、以前書いた「時間」に対する感情と似ているかもしれない。意識しなければ流れていってしまう時間に、錨を打ってこの世界を捉えていたい。

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ココロの旅をする

でも考えてみれば、その「慣れ」は自らの内面が生み出すもので、本来は外部環境に左右されるものではないのかもしれない。

自分の好きな外部環境に身を置くと同時に、例え慣れた日常であっても微細な変化を捉えられるような心の眼で毎日を見据える。

どれだけ素敵な環境にたどり着こうとも、内面のレンズが汚れていれば何も見通せない。でも、同じ日常でも必ず変化は起きているはずで、その変化を捉えられず嘆いているのは、僕のレンズに異常をきたしているからなのかもしれないな。

 

「ココロの旅」を通して、より世界を高精細なものにしてゆく。日常を切り取る視点を変化させることによって、内面的な意味で「環境の振れ幅」を生み出す。

例え眼前に漂う空気が汚れているのだとしても、その汚れを生み出しているのは自分自身。神秘的なものを見通せる、もっと高精細なレンズが欲しいなあ。