よねすけ、隣に突撃するってよ。

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自分が亡くなったときは、どうか「土葬」で処理してほしい。世界の様々な葬儀方法について。

どうも、絶賛自転車日本一周中のよねすけ(@yonesukez)です。

地球上に生物として存在している時点で、いついかなる時も「死んでしまう」リスクにさらされているわけですが、死生観なども交えて考えてゆくと「自身の遺体をどのように処理してもらうのか」という問いにぶつかります。

日本では遺体の処理方法として「火葬」が一般的ですが、本来ならそこで生命を循環させていくものを人間の都合で断ち切っているような気がして、「土葬」で処理してほしいと考えています。というおはなし。

生命の循環を停滞させている。

日本一周の旅に出る前は、旅の準備等の作業があるのにも関わらず、写真家である星野道夫氏の本をむさぼり読むことにハマっていた。

星野氏は主にアラスカで活動していることで有名だけど、目の前で食物連鎖が繰り返されることから、必然的に「生命の循環」に関する話題に及んでいく。

特に、『Alaska 風のような物語』の以下のエッセイが好きだ。

ある秋の日、二頭のムースは繁殖期のピークに出会ったのだろう。すでに雌の群れを従えた雄に、挑戦者が現れたのだ。激しい戦いだったに違いない。八◯◯キロにも及ぶ雄むムースが、力の限りを尽してぶつかり合う。

その闘いをじっと見守る雌ムースの群れ。突然、何かが起きた。異常な力が加わったのか、運命的な角の枝分かれの組み合わせだったのか、頭が離れない。

おかしいと感じながら戦いは続いてゆく。二頭のムースは、あえぎながらそのまま疲れ果てていったのだ。

 

サベージ川流域にはオオカミの群れがいる。ある晩秋の日、一頭のオオカミが、弱り果てて倒れている二頭のムースを見つけたのかもしれない。そのオオカミは、仲間を呼びに戻ったか、遠吠えで何かを知らせただろう。集まったオオカミの群れまわりを取りかこむ。そして、ムースの死。

この地域を徘徊するグリズリーが、血の匂いを嗅ぎつけないはずはない。オオカミをけ散らし、残ったムースの肉を悠然と奪うだろう。冬眠前の、なんというごちそうだ。食べ続けながら、グリズリーはその場を離れることができず、ムースに覆いかぶさるように毎晩寝ただろう。近くで、オオカミの群れがじっと待ち続けている。数日がたち、グリズリーが腹を引きずるようにして去ってゆく。

再び戻ったオオカミの群れ。残りを平らげるのに時間はかからない。やがてオオカミも腹を満たし、一頭ずつ姿を消していく。

それを待っていたかのように、トウヒの枝からカケスが舞い下りた。渡り鳥は南へ帰ったけれど、カケスはこの土地できびしい冬を越してゆく。カケスがついばむには、まだまだたくさんの肉が残っていた。

 

冬のある日、カンジキウサギが雪の中に絡まった角を見つけるだろう。餌の乏しい冬、それはげっ歯類にとって貴重なカルシウム源。テリトリーをさまようアカギツネも、同じ角に立ち止まるかもしれない。やがてそこには、テリトリーのマークとして放尿する場所になってゆく。

ある時、一人のワナ師が通りかかり、雪の上の足跡を見、野生の匂いを嗅ぐ。原野に生きるこの男は、そこにひとつのワナを仕掛けるのだ。

もっと長い時がたち、ゆっくりと栄養分を吸った土壌は、いつか絡み合った角のまわりに極北の小さな花を咲かせるだろう。

二頭のムースの壮絶な死。そこからさえ自然は始まってゆく。

ーアラスカ 風のような物語

生命の循環について考えていると、この肉体は借り物のような気がしてくる。あくまでこの肉体に乗っ取って活動を続けているだけで、肉体は自身のものではない。実際的にも、微生物の集合体のようなもんだし。

だから、この肉体そのものを自然へと返すために循環させる。星野道夫氏は、最後はクマに食べられて亡くなってしまった。テレビでは悲劇として放送されていて、本人じゃ無いのに語るのはおこがましいけれど、交通事故等で亡くなるよりはよほど納得する死に様だったのではなかろうか。

 

命の灯火が消えてしまった時点で、自身と肉体が分離されてしまっている。そんな状況で肉体への執着はほぼ無いだろうから、どう扱ってもらってもいいのかもしれないけれど。

現在の肉体と自身とがくっついている状態から考えるなら、本来なら生命を循環させるために肉体を残していくものなのに、火葬をすることによって循環を断ち切ってしまっているような感じがする。というか、小難しい理論をつらつら語る以前に、本能的に違和感がある。

どうせなら、この肉体を次へ次へと循環させていきたい。となると、チベットの鳥葬なんかも候補に入ってくるのか・・・?いずれにせよ、この肉体を自分たちだけで処理するのは大変おこがましく感じるし、自然界へ返還したいと純粋に思う。

日本で土葬することは可能なのか?

法律上で土葬を禁じることをしていないし(墓埋法)、また火葬場のない離島等では土葬の文化が残っている地域もあるらしい。(東京都利島など)

参考:日本では火葬しかできない(土葬禁止)って本当?葬式・お墓・宗教に関する法律まとめ⑥ | 明徳司法書士事務所所長ブログ

またまた、沖縄の離島では風葬の文化が残って”いた”場所もあるそう。(久高島、来間島など、これはぜひ自転車日本一周の旅で訪ねて話を聞きたい!!!)

 

しかしながら、現在の日本で土葬を行ったとしても、莫大な費用と多大なる迷惑をかけた状態で終わってしまう。遺体は「物騒なもの」としてしか扱われず、その遺体を中心として小さな生命の萌芽が出ることもなさそうだ。

葬儀のしきたりにこだわりがあるわけではなく、単純に自身の肉体を自然界へと返還したいだけなので、やはり海外で葬儀を行うことになるのかな。

それでも生命の循環に隔たりを作りたくないから、自らの遺体を焼くのではなく自然へ返礼する手段として葬儀方法を選んでいきたいと思う。

海外での葬儀方法一覧

最後にもっともらしく、海外の葬儀方法一覧(肉体を自然に返還する葬儀に絞った)を載せておく。

  • 洞窟葬→洞窟の中に死者を入れる方法。沖縄でも文化として残っていた。
  • 鳥葬→モンゴルやチベットで、死体が主食のハゲワシに食べさせる方法。
  • 風葬→海岸等に遺体を放置し、風化させたあと骨を回収する。沖縄でも。
  • 獣葬→ハイエナ等の動物に遺体を食べさせる方法。マサイ族。
  • 海葬→遺体を布等で巻き、大海原へと流す。海賊など。

などなど。

日本ではしばしば、”奇習”としてチベットの鳥葬が取り上げられているようだけど、そんなに不思議なことだろうか・・・?抜け殻の肉体を次の世代へと受け継いでいく行為は自然なものに映る。

むしろ僕からすれば、死に至っているのに肉体に執着しているほうがよほど不自然だ。循環を停滞させることは次の生命を断ち切ることにつながってしまう。僕は自分の肉体であっても、次へ次へと流していきたい。

おわりに

普通は皆、特に疑問を持たずに火葬を選択していくのだろうけど、「本当にそれでいいのか?」と一度考えてみてもいいんじゃないかなと思います。

少なからず僕は火葬ではなく、別の手段で葬儀を行いたいし、もっと色々な葬儀の方法があってもいいと思う。

ぜひ、この機会に「自分はどういった葬儀がいいだろう?」と考えてみてください。それでは!