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よねすけ、隣に突撃するってよ。

新しい世界を求めて、いざ突撃せん。

「なんとなく」で生きてゆける人の腹の中が全く読めない。

旅をする生き方・暮らし

どうも、絶賛自転車日本一周中のよねすけ(@yonesukez)です。

昔から、自分は「慣性で世を生きてゆく」ということができない。対象に疑念を持てばそれを解消せずにはいられず、いちいち立ち止まってしまうことがある。

また、自分の取り組みからこれ以上の学びが得られないと判断すると、それを継続するモチベーションが一気になくなってしまう。だからこそ義務教育から離れたのかもしれないけど、逆に「なんとなく」で動ける人の腹の中が全く掴めない。というおはなし。

なぜ「なんとなく」で生きてゆけるのか

何かを始めるとき、「なんとなく」とか「とりあえず」という動機で動き出すことができず、大抵の場合は強烈な動機に裏打ちされている場合が多い。

ただし動機を言語化できるかどうかは別の話で、むしろ自分が強烈に突き動かされる瞬間というのは理屈じゃなくて感情で動いている事のほうが多い。日本一周も、なぜか頭に「日本一周」という言葉が舞い降りてきて、気がついたら旅に出ていたといった感じだ。

何かを継続するときも、また何かを始めるときも、「これだ!」という強烈な動機に裏打ちされている場合にも行動できるのだけど、逆に「よくわからないけどやっとこう」で動ける人の感情が全く読めなかったりする。

 

例えば、これまでの例だと「なんとなく」で始めた勉強が全く板につかず、途方にくれたことがある。逆に「これだ!」と思ったものは自分が意図せずとも気がついたら夜になっていた、なんて出来事がしばしばある。

しかし、周囲を見渡すとそのようなモチベーションで生きている人が存外にたくさんおり、逆にどうしてそれで動けるのかと聞きたくなることもある。知識を詰め込んでおきたいときなど、いいなぁと思うこともある。

この世で生きている以上、「なぜなのか」という疑問は限りなく生まれる。小さい頃から、その度に「なぜなのか」と思い頭がぐるぐると回り始める。答えが見つからず消耗するときもあれば、解決して再び動き出せることもあるのだけど、皆この疑問を解決しながら進んでいるのか?それとも疑問自体が浮かばないのか?全く腹の中が読めない。

 

どちらが偉いという話ではなくて、人生で様々な選択肢を選んでゆくうち、必ず浮かんでくる疑問に対してどう折り合いをつけているのかなぁと。

知識が解決してくれる疑問なら簡単に解けるけれど、もっと抽象的な「なぜ生きるのか」とか、「どういう人生にしていきたいか」という疑問は書籍が解決してくれるわけではなく、時に人と話し、時に自分自身と対峙しながら結論を出してゆかなければならない。

おおよそこの日本一周の旅で見えてきた感じはあるのだけど、それにしてもどうしているのかなぁと気になった。そこをコントロールできれば、より人生の幅が広がっていきそうな感じはするけど。

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