よねすけ、隣に突撃するってよ。

新しい世界を求めて、いざ突撃せん。

「生きる意味」を追い求める、長い旅路へ。くり返しくり返し訪れる夜に「なぜ?」を突きつける。

自分の生きる意味とはなんたるや。「生きる意味」なんて、それこそ突きつめれば高度な哲学的領域になってくるけれど、多くの人がタイミングによってこのような問いを人生で何度か立てることになるだろうし、考えることは無駄じゃない。

さて、僕はもうすぐ自転車日本一周の旅を再開していようとしているけれど、有り余る時間と自由さとを目の前にして、この問いにぶち当たっています。うへえ。

それは、大衆から認められることなのか?一人の人間を愛することか?自分の実現したいことを追求することなのか、新しい知に触れることか。絶対的基準が失われつつある現代だからこそ、闇に包まれた領域を解き明かすために問いを続けなければいけない。となんだか難解そうなテーマを思いついたので、文章を綴ってみます。

表面的な不安

思っていた以上に自分はあまり強くない人間なようで、母親によると小学生のときから「僕は今後どうなるの?」という問いを周期的に絶えず続けていたようです。

それは現在でも全く変わらず、「これ面白れぇ!やるぞ!」というものが見つかっても、その先に「見えない闇」が映ると不安になり、限界を迎えると周囲に吐露し始め、迷惑をかけながらも立ち上がって進む。そして「生きる意味とはなんぞや」という問いを繰り返す。

そんなフェーズにあるために、自身の思考を整理するために書き始めました。読み手にとって得られるものがあるのかどうかはわからないけど、書きたい気分になったから書く。

 

なぜ今の自分は不安になっているのか。単純に一度旅に出てから衣食住を失い、実家に一時帰宅するとともに手に入れたものの、それを再び失おうとしているから。それは間違いないのだけど、もっと根本的な問いに対して不安を感じている。

まず、衣食住を「とりあえず」手に入れることは、この日本では比較的容易であると思う。若くて、五体満足で、特に自殺願望もない時点で餓死や凍死することはあまり考えられない。

配偶者がいるわけでもないので、とりあえず自分のことと親のことだけ考えていればいい。「衣食住を失うこと」に対して不安を抱いていたけれど、恐らくそれは表面的な不安に過ぎない。「とりあえず」生きるだけでいいのなら、ありがたいことに旅を通して「またウチに来な」と言ってくれた方が予想以上に多かったから、再びお世話になることもできるかもしれない。

「忙しい」と書いて、”心”を”亡”くす。

では、なぜその状態でもなお不安を抱くのか。それは、旅を終えた先のこと、今後のことが決まっていないからか。

よく「忙しいことは美徳である」というような発言を聞くし、自分もまた、そのように考えていたことがある。当時の自分の心情を振り返ると、表面的には「多方面から求められてる俺カッコイイ」という構図になるんだけど、実際には「せわしなく忙しくすることによって、自分と向き合う機会を減らし、最も恐れている部分へ目を向けさせないため」であったように思う。

忙しいと書いて、”心”を”亡”くす。これ以上でもこれ以下でもない。

 

できれば、あまりこの話題について考えたくはない。化膿した傷を抉るような、そんな気持ちになるからだ。同時に、しかし「なぜ?」という問いを自分に向けて立てなければ、一生解決しないというジレンマも生み出す。

自己と向き合い、解決策を探る作業には時に耐えられないほどの痛みを生み出す。それでも深淵にて対峙し、痛みや弱みを晒しながら、それすら自己と同化させる作業が必要なんだ。

振れ幅を生み出すこと

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生きるとは、つまりどういうことなのか。「生きることそのもの」に意味付けすることはできるのだろうか。

人は欲求が充足されているときは、その現状を正しく認識することができない。今の高度な資本主義社会で、これだけ食料が大量にあること、物が大量にあること”そのもの”を認識できる人はほとんどいない。大抵、真逆の状況と対比して描かれる。必要なものが大量にあっても、困ることはないからだ。

逆に手元の資源が減少しているときは、過敏なほどに反応する。損や無駄は最も耐え難いものであり、身動きが取れない恐怖に見舞われることもある。まさに、今の自分がそうかもしれない。(笑) これは、人間の生存本能そのもの。

 

そしてこの”振れ幅”を生み出すこと、感じることこそ、自分が「生きている」と感じられる手段の一つなのではないか。

必要なものが手元にないとき、一つ一つの細かい悩みなど何もかもを忘れて、ただそれだけを求めるようになる。求めて、求めて、手に入った瞬間はこれ以上ない至福の時だ。

逆に手元にあるものを手放そうという時、自分の体の一部を失ってしまうような非情な痛みが襲ってくる。これまで周囲の環境に安住していた自分を恥じ、徹底的に自身と向き合わなければ、その環境を受け入れることができない。

 

この世で人間として「一番悲しいな」と思うのは、人は自分が思っていたよりも数倍「慣れる」生き物だということ。慣れてしまうのだということ。

慣れるということは、逆に変化をより大きく感じられることと同義。見知った光景を毎日見続けることは自分にとって大きな苦痛だけど、自分の知らない美しい景色を発見した時は、思わず涙してしまう。

振れ幅を生み出すことは、常に知らないものを追い求めようと行動する、果てしない冒険のようなものかもしれない。自分を極地に追いやるごとに知らない自分の一面と、それでも過去と変わらない同一の自分を垣間見ることができる。

「なぜ?」を問い続ける長い長い旅路

ここまで書いておいてなんだけど、結局全てのことはわかりはしないし、それは「生きる意味」においても同じ。現時点ではこうだろうという結論を出すことはできる。けれど、それは主観的な判断にすぎないから、成長ともに結論も変化する。絶対的な答えはないね。

今の自分にとって、最も恐ろしいのは現状に甘んじること。目の前にある幸せを取りこぼすことではない。「これはおかしいぞ」という対象があるにも関わらず、「なんとなく」を多用して目を逸らし、自分を見捨てること。自分が自分ではなくなってしまうこと。

だから僕は「変だ」と思ったら、その疑問を検証した上で、必要とあらば容赦なく叩き潰す。新しい知や経験を積み重ね、「なぜ?」を問い続ける。この自転車日本一周の旅も、その結論の一つ。

 

振れ幅を生み出し、その過程で必ずつまづくけれど、その度に自身と向き合って、くり返しくり返し訪れる夜に「なぜ?」を突きつける。はっきり言って非常に面倒臭いんですが、これが今のところ「自分が生きている意味」になるのでしょうかね。

 

あの快い夜のなかへおとなしく流されてはいけない
老齢は日暮れに 燃えさかり荒れ狂うべきだ
死に絶えゆく光に向かって 憤怒せよ 憤怒せよ

賢人は死に臨んで 闇こそ正当であると知りながら
彼らの言葉が稲妻を 二分することはなかったから 
彼らは あの快い夜のなかへおとなしく流されていきはしない

ディラン・トマス

http://www.cinemawith-alc.com/2014/11/Interstellar21.html

 

 追い求める過程こそ、全てなんでしょうけどね。