よねすけ、隣に突撃するってよ。

新しい世界を求めて、いざ突撃せん。

平成7年生まれの僕が、「インターネット」に全力で惹かれてしまうたった1つの理由。

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今や、あらゆる場所に張り巡らされている「インターネット」という存在。

自分が物心ついたときから身近にあって、気づいたところには周囲全てを覆い尽くしてしまうほど、生活に欠かせなくなった存在。今回は、それだけ身近に接してきた「インターネット」に全力で惹かれてしまう、たった1つのことを取り上げてみた。

インターネットやメディアには未だとんでもない可能性を感じるし、未来を創っていけるポテンシャルがあると思う。

物心ついた時からあったインターネット

早速ですが、ここで少し昔の話をします。

僕は、平成7年に生まれました。阪神淡路大震災のあった年。大震災のあった直後はまだ生まれていなかったんだけど、この大災害によって「災害時の情報流通手段」として初めてインターネットが使われました。

その後、救助活動で有効利用されたインターネットは震災以降、一気に一般大衆へ普及していったと聞きます。物心ついたときからインターネットは身近な存在で、小学生の時から「承認欲求」と「大人との対等な交流」を求めてブログ上でセコセコと情報発信していました。

 

一気に現在の時間軸に戻りますが、そのインターネットは日本全体に広まり、今や人口あたり普及率は82.8%になったみたいです。(平成26年、総務省情報通信白書)

電車に乗ると、ほとんどの人がスマホを弄って何やら作業をしているし、小学生以下の頃からインターネットに増える機会も相当増えたのではないかと思います。

ブログという自由に使える媒体の存在も増え、無料で利用できるようになり、多くの個人が自分が伝えたい内容を大衆に向けて発信できるようになりました。ブログやSNSまで含めると、老若男女問わず毎日莫大な情報が発信されています。今使っている「はてなブログ」だけでも、Twitterで検索すると毎分毎秒、眼がくらんでしまいそうなほど情報発信がなされています。

情報発信の価値は薄れつつあるのか

インターネットが出た当時は一部のギークによって利用され、大衆に広まった段階で様々な個人や企業がこぞって参入し、現在では当たり前のように誰でも利用するようになった。

ネットが大衆へと広まった段階では、まだ全体のパイは現在より少ないにしても情報発信者側の数が相対的に少なく、情報の自由度は少なかっただろうけれど、「情報」自体に詰まっている価値の量は多かったと思う。

それが現代では、あらゆる個人・組織・企業が情報発信している時代。個々人が発信する情報の価値自体は薄れつつあるのだろうし、他のブログを調べた時にあまりにも多くの記事が並んでいるのを見て、「あ、これはやべえな」と思った。

 

僕はこの「インターネット」を最大限利用し尽くしたいと思っているし、自分の伝えたい情報を発信し続けたいと思っているんだけども、これだけ記事が乱立していながらほとんどの人が誰にも閲覧されていない状況を鑑みるに、「インターネット自体がオワコン*1になりつつあるのか?」と思わざるを得なかった。

実力以下に評価されているものを拾い出す

そんな状況にあって、なぜ僕はいまだにインターネットに惹かれるのか。

ネットが大衆へと広まり、情報を出し惜しみするのではなく積極的に「シェア」する文化や、いつでもどこでも誰でも「自由に発信できる」インフラが整っていること、匿名性を利用することによる「立場や肩書きを越えたコミュニケーションができる」ことなど、現実の世界に様々な影響を与えた。

インターネットに惹かれる理由はたくさんあるけれど、一番の根幹は全て下記の理由によるものです。

 

それは、「実力以下に評価されているものを再評価する基盤」があること。言い換えると、「インターネットで”希少性のある個人”を顕在化させることができる」ということ。

www.e-aidem.com

先日、このような記事を見ました。内容は直接記事を見てもらったほうが早いけど、要約すると「視覚障害のある人が”テープ起こし”という特技があることを知って、インターネットで取り上げたところ新しく価値が見直された」というもの。

これは、前述した「実力以下に評価されているものを再評価した」結果に他ならない。普通だったら「特別でもないな」と思うことでも、見る角度によってはダイヤモンドのように輝くことがある。

ここでインタビューされている方はまさにその事例に当てはまっていて、普通だったら「ハンディキャップ」とされる障害を乗り越え、さらに「テープ起こし」という特技を発見し、それらをメディア側の人間が取り上げたところ、インターネットで再評価された。多くの人が元気付けられたと思うし、僕個人としてもあらためて「インターネットの価値」を再確認できた。

 

まだまだ現代になっても、インターネットの価値は廃れていないんだなと。どれだけメディアが乱立しようとも、「実力以下に評価されている個人を再評価する」ことによって価値が生み出せるのだなと。

ちなみに「実力以下に評価されているものを拾い出す」という言葉は『インターネット的』の著者である糸井重里氏のものですが、本当にすごい人だと思います。オススメの本です。

新しい生き方を「文化」として根付かせてゆく

ある個人が新しい生き方を提案し、社会に評価されていく過程で「インターネット」は強力なツールとなるし、僕は小さな小さなメディアの人間としてその一端を担いたいと思っています。

特定の個人が初めた「新しい生き方」を、伝えたい対象に向けて発信できるよう共通言語に翻訳してゆくこと。伝えたい人たちに伝わる表現方法や媒体を選び、発信することでともに切磋琢磨してゆけるコミュニティを作りあげること。

インターネットを使えば、その生き方を「文化として根付かせる」ことも可能だと思っています。それは莫大な努力が必要なのだろうけど、その可能性すらもっているし、その価値はいまだ廃れていない。

おわりに 

個人的にはこれほど面白い生き方、はたまた仕事はないと思っているんですが、同年代の方、いかがでしょうか・・・?

別にメディア関係の大企業に就職することが全てではなく、自分でブログを始めて出来ることもあるんだけど、どうなんだろう。共感してくれる人もいると思うんだけど。(笑)

平成7年生まれで、物心ついたときからインターネットがあったけれど、「インターネットの価値」は未だ廃れていないし、個人の使い方によってはさらに何倍もの価値を生み出すことが出来る。僕はインターネットの「実力以下に評価されているものを拾い出す」という特徴に何よりも惹かれるし、これだけメディアが乱立している時代にも価値を生み出せるということに気づいた。というお話でした。

 

この記事を作ってくれたジモコロ関係者の方々には、勝手ながら「ありがとう!」と言いたいです。それでは!

*1:終わったコンテンツの略、ネットスラング