よねすけ、隣に突撃するってよ。

新しい世界を求めて、いざ突撃せん。

「幸せ」っていうのは、心の平穏じゃなくて「魂の振れ幅」から生まれるもの。自分を破壊し、脱皮し、魂を揺さぶられる瞬間をつくること。

先日書いたエントリーに続いて、ちょっと哲学的な内容です。内へ内へ掘り下げた心理なんかを文章化するのが大好きなので。

今回は「幸せ」の定義について考えます。辞典に載ってるような普遍的なものは辞典を見てればいいんだけど、自転車日本一周の旅を通して感じた「幸福とは何か」っていう問いについて書いてみようと思う。

旅中によく聞かれる「楽しい」という言葉への疑問から、なぜ苦しいのに自転車で旅をするのか、幸せとは心の平穏ではなく「魂の振れ幅」から生まれるもの、という展開で書いてみました。こういうの好きな方にはぜひ読んでもらいたいです!

「楽しい?」に内在する表面的なもの

自転車日本一周の旅をしていると、割と頻繁に「それって楽しい?」という質問をされることがある。

質問の内容としては至って普通なんだけど、旅をしている本人からすれば「え?いや楽しいけど・・・それだけを求めているわけではないんだよね」という結論になる。

深い哲学を持ってそういう質問をされることはまずないので、質問の返答をしてもそれ以上深堀りされることはないんだけど、自分自身が気になるのでもう少し掘ってみる。

 

まず会話を成立させるために「楽しい」の定義について書いておくと、それ自体はすごく表面的な快楽を表す言葉だと考えている。

表面的なものが悪いのではなく、その定義を満たす言葉が「楽しい」であるということ。

そして、僕自身はその表面的な「楽しい」を満たすために行動することはあるけれど、たとえ幸福じゃない瞬間がたくさんあっても、もっとダイナミックで未知な世界を知ってみるとか、ストレス負荷が高くても全然知らない領域に飛び込むとか、そんな行動で人生を満たしていきたいと考えてる。

旅は苦行でもあり、振れ幅を生み出すものでもある

その点から「旅」というものを見てみると、特に自転車の旅は一種の苦行みたいなものだよね。

移動するだけなら人類の英知が詰まった車とか電車を使えばいいのに、この時代にわざわざ人力で移動する時点で「苦行」以外の何物でもないよね。そういう側面があることを理解して旅してるし。

自転車で走っている瞬間は、楽しいときもあるけど苦しい。苦しいときの方が圧倒的に多い。もちろん旅全体で見るとそんなことはないんだけど、走行中は基本的に苦しいのがデフォルト。

 

でも、僕は修行をしているわけじゃない。あえて苦しいことをして自分をいじめようなんて考えたこともないし、その先に何かはあると思うけど、あえてやろうとは思わない。

なんで「苦しい」のに自転車で走ってるかというと、「楽しい」という表面的な言葉の向こう側にある、「魂の振れ幅」を生み出すためにわざわざ苦しい想いをして走ってるんだと思う。

 じゃあ、その「魂の振れ幅」ってなんやねんというところと、そこから発生する「幸福」の定義についてもうちょっと深堀りしてく。

幸福は「魂の振れ幅」から生まれる

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この投稿でも書いたけど、人はどうしようもなく慣れる生き物なんだよね。

仮に新しい環境を作っても、すぐに慣れてしまう。

それは本来生存本能から来る「慣れ」であって、昔には重要な機能だったのかもしれないけど、現代においては大変面倒くさいものだったりする。

 

ちょっと話は変わるけど、多くの人が考える「幸せ」の定義って、未来永劫ずーっと「楽しい」に満たされていたり、ずっと心の平穏が訪れている、刺激はあるけど不幸はほとんど感じないみたいな、そういうものが多いんじゃないかと思ってる。

でも前述した通り、人は「どうしようもなく慣れてしまう生き物」なんだよね。例え一時的に刺激に満たされたとしても、その刺激がずっと続くわけではない。片っ端から慣れてしまう。

「ずっと同じ職業をやっていて幸せな人もいるじゃないか!」という意見もあるけど、ずっと同じ職業でも、同じような日常から常に変化を感じ取っているから、そして自ら変化しているから幸せなんじゃないかと思う。

 

僕の考える幸せの定義では、ずっと心が平穏な状態で幸せを感じられるはずはなく、例え同じような日常からでも「変化」を感じ取り自ら変化しているんだと思う。

それはその人が日常を「高精細なレンズ」で切り取っているからわかる変化であって、他人には理解できないケースが多いかもしれない。

変化が必要ということは、常に「産みの苦しみ」みたいなものを繰り替えさなければいけないということ。常に自分を破壊し、アップデートし、脱皮してゆくということ。多分人生というのは、その繰り返しなのだということ。

魂が揺さぶられる瞬間

「魂の振れ幅」というのは、単純にいうと「自分の魂が揺さぶれる瞬間」のことをいう。

ずっと同じところに浸っていても、魂は揺さぶられない。衣食住は満たされているはずなのに、ほとんど必要なものが手に入ってしまう環境にいるのに、なぜか無性に不安になる。

自分の場合、その不安を深堀りすると、だいたいが「魂が揺さぶられる瞬間がない」ことによって日常への不満を感じていた。1つの平穏より、2つの極端を僕は求めていた。

 

実家で暮らしていたときは、当たり前のようにご飯が出ていた。それらは自分のなかでは「あって当然のもの」であり、希少性がないものであり、情熱を持って追いかけるものではなかった。

自転車日本一周の旅に出ると、節約と重量軽減のために米は食わない。最初は当たり前だった「米」という存在も当たり前じゃなくなってきた。それは、やがて「心から欲しいもの」になった。

旅に出発して2ヶ月目。それまで、ほとんど米を食べていなかった。そんな時に以前貰った米をまだ食べていなかったことに気がつき、絶対に今夜食べよう、と決意した。

 

夕方、ようやくテントを張れる場所まで移動して、早速飯の準備を始めた。アウトドア装備しか持ってないから、米を炊くのも一苦労。トイレで米を研ぎ、水に浸して、アウトドア用の小さいコンロで沸騰させる。

飯盒炊飯だったので、焦げ付かないように常に目を配りながら、長い時間待った末にようやく米ができた。念願の米だ。やはり日本人には米が必要だ!などと、この瞬間に思った。

久しぶりに食べるお米は、今まで食べたどんな飯より美味かった。ただ米だけを味わっていたかったから、3合程度の量を何の調味料もおかずもなしに食べた。「魂がゆさぶれられる瞬間」というのは、まさにこういう時のことをいうのだと思う。

破壊して成長するプロセスを繰り返す

魂が揺さぶられる瞬間というのは、魂自体の「振れ幅」を生み出す行為であり、自分自身を破壊しながらも脱皮して成長する状態をいう。

例え表面的に見えない部分であっても、人は常にそのプロセスを繰り返しながら道を進んでいくのだと思う。そこに「幸せ」という宝箱も埋まっているのだと。

変わりたくない、傷つくのが怖いというマインドでは変化もできないのだろうし、魂を揺さぶられることもないのだろうと思う。まさに最近の自分自身がそんな感じ・・・って自己矛盾してるけど。(笑) 自分という存在を全力でぶつけて、破壊して、変化してゆく。

 

僕は、自分自身を破壊し、脱皮し、成長して「魂が揺さぶられる瞬間」を生み出したいから自転車で旅をしている。

まあ、説明が長くなりそうだから、現実でこの話をすることはあまりないとは思うけども。(笑)

これからも、例え一時的な「楽しい」機会より苦しく感じる機会の方が多かったとしても、僕は魂を揺さぶっていたいから、こんな旅を続けていく。